イランの宗教事情について

サラーム、皆さんこんにちは。

 

イランでのネット規制に苦しみなかなか更新できませんでしたが、ようやくVPNを確保したのでこれから徐々に増やしていこうと思います。

 

さて、先日日本に居るときから連絡を取り合っていたイラン人の友達と会って話をしていました。そこで宗教についての話題になったとき、彼女から日本人の感覚にとっては不思議であろう発言があったので、少しここで取り上げてみようと思います。

 

f:id:exploring-the-world:20180531195405j:plain

サハール

 

 

 

 

「私は神の存在はもちろん信じるけど、別にイスラームは信じていないよ」

 

 

 

 

この発言に違和感を覚える日本人は多いのではないかと思います。それは恐らく、多くの日本人が神と宗教の関係は切っても切り離せない関係であると考えているからでしょう。ただ、実はイランにはこういった人が多く存在します。イランだけでなく、欧米のキリスト教国でもこういった人が多く存在すると思います。

 

 

 

ここに、日本人の宗教観と外国人、特に一神教国に住む人との宗教に対する考え方のギャップが見られます。もう少し彼女の言葉を追ってみます。

 

 

 

「確かに昔はイスラームを信じていたし、教えを守っていたんだけど、段々と考え方が変わってきた。神の存在は信じるし、神がいつも私を守ってくれていると感じている。でも、私は神のために生きているわけではなし、私たちが生きている限り求められていることは、他の誰かの幸せのために生きることだと思う。自分の手の届く範囲にいる人々を助けてあげることは、ただただ神に祈ることなんかより、ずっと価値のあることだと思う。」

 

 

「私が神に祈るときは、私が神の助けを必要とするときだけ。自然と神が道を示してくれるし、心に安らぎを与えてくれる。でも、神に祈るからといってイスラームの様にヒジャブを被ったりする事はしたくない。宗教心はあくまで個人的な範囲にとどまるべきであって、他の誰かに考えを強制するのはよくないと思う。」

 

 

ここでの彼女の発言でもわかる通り、神を信じることがそのまま何かの宗教に属することを意味するわけではありません。また信仰心にも当然ばらつきがあるし、何を良しとし悪いとするかも人によって異なります。例えばお酒を飲むからあいつは信仰心が低いな、なんて指摘は相当ナンセンスな言葉だと思います。

 

 

 

科学が自然の摂理の多くを解明し、近代国民国家が共同体を形成する役割の大部分を担う現代において、宗教は同じルールで生活し、同じ信仰を持って共同体を作るものとしての役割はかなりの程度失ったと思います。その代わり、宗教に求められる役割はより一個人の内面に迫る宗教哲学的側面が強くなっています。彼女の言葉はまさにそれを体現した言葉だと思います。

 

 

実は、自分も神を信じています。ただ、神といっても多くの人々が思い浮かべる、例えばキリストやイスラームの様な、この世界を作り出し、またいずれそれを終わらせる全知全能の神ではありません。自分にとって神とは、人間一人ひとりの精神の中に存在する究極の精神状態そのものです。わかりづらいですが、感情や理性を完全にコントロールし、精神的に完全的な状態そのものが私にとっては神そのものなのであり、その「神」に少しでも近づく作業こそが人生においては非常に大切なのだと思います。

 

先日、友人であるイランに留学中のインドネシアムハンマドと話をしていた時、これに似た面白い話を聞きました。彼はインドネシア語英語、アラビア語ペルシャ語を話す非常に優秀な学生で、多様な文化にもオープンマインドな一方で敬虔なイスラーム教徒でもあります。彼にイスラーム信じる信仰心の正体について尋ねた時、彼は次のように語っていました。

 

 

自分が神を信じている理由はコーランに全て書いてある。」「コーランに書いてある内容は、例えばアルコールを飲んではいけないとか、豚肉を食べてはいけないとかそういう誰にでもわかるシンプルな表現が多い。それが単純に規制が多い宗教だと思われる原因かもしれないけど、実はその言葉の奥に多くの秘密が隠されている。」

 

コーランが編纂されたのは7世紀頃で、当然そのころの人々は今我々が知っている常識は持っていないし、街の治安も今よりずっと悪い。」

 

 

 

 

「例えば、コーランに豚肉を食べてはいけないと書いてある理由は豚肉には有害な菌が多く含まれていて、当時の人が知らずにそれを食べれば、大勢の人が死んでしまう。アルコールも規制がなければ街の治安悪化が加速する。今ではきちんと加熱をすれば豚肉は食べられるとほとんどの人が知っているけど、そんなことを説明しても当時の人には誰も理解できない。だからコーランに書かれた内容はだれでも理解し実践できるシンプルなことが書かれている。ただ実はその奥の真理にはもっと深い“秘密”が隠されている。」

 

 

 

 

 

預言者ムハンマドは神から啓示を受けたとされているけど、本当は何らかの理由で彼の心が神の心とリンクしたんじゃないかと思っている。でなければ7世紀に住む一人の商人がこの世界のあらゆる真理に気付いているはずがない。」「だから、自分にとって宗教を実践する行為は、自分の精神を神の精神に近づけるためでもある」

 

 

 

人間が人間たりうる理由、つまり動物との違いは理性を持っていること、教養を教養として学べることだと思います。宗教的な実践は、多くの人にとっては自分の中に眠る理性を、教養を磨く人間的行為の実践の現れでもあると思います。