留学を終えて

8か月間のイラン留学を終えて。。。

 

約八か月間のイラン留学が終わった。長かったような、短かったような、やっぱり長かったような。自分の思い描いていた、留学中にやろうとしていたことは、なかなか実現できなかったと思う。確かに、ペルシャ語の習得という面では、ある程度話せるようになったかもしれないけど、それでももっと努力できたな、と思うところも多々あるのが正直なところだ。自分の留学に点数を点けるなら、せいぜい65点がいいところだろうか。

 

それでも、留学中や今この瞬間に自分の中にある一番大きな感情は、後悔ではなく、感謝だ。

 

よく、海外にいくことは自分探しだ、なんて言う人がいる。それを口にする人によってその真意は様々であると思う。そんな中、自分が8か月間海外に身を置き生活し、改めて思う。海外に行くことは、自分探しだ、と。

 

海外に自身の身を置く中で、今まで見えづらかったものがはっきりと見えてくる瞬間がいくつもある。例えば、何気なく一人道を歩いているとき、きれいな公園があったので中を散歩してみる。周りには、芝生の上でチャイをすすり、ピクニックを楽しんでいる家族、ベンチでお互いを見つめあいながら嬉しそうに談笑しているカップル、大きな声を上げ友達と笑いあうグループ、嬉しそうに孫と戯れてるおじいちゃん..。イランの公園は見渡す限り平和で幸せな光景が広がる、自分がイランで一番好きな場所だ。

 

その時、ふと気づく。ここに俺の居場所はないんだなあと。自分は今、家族とも友達とも、遠く離れた場所にいる。一緒にピクニックを楽しむ家族はいないし、しょうもないことで大笑いする友達もいない。ここに俺の居場所がないのは、ここがイランだからではない。ここに俺の居場所がないのは、ここは俺にとって親しい人たちがいる場所ではないからだ。ここが俺の居場所ではないのは、俺が日本人だからではなく、俺のことをよく知り、よく気に掛けてくれる人がいる場所ではないからだ。

 

あまり難しいことはわからないが、自分の存在について考えることが好きだ。自分が何者なのか?という意味合いではなく、自分が存在するとはどういうことかという意味でだ。その問いに対してはデカルトの「われ思う故に我あり」とか、ハイデガーの「実存」とか「現存在」とかがその答えとして真っ先に出てくる。確かに興味深いし、納得するところも多い。でも、自分が思う「存在」は、「自分個人」としてではなく、常に人と人との間にある。

 

自分にとって自分の存在は、自分以外の誰かが「自分」を認識することで生まれるものであると思う。例えば、この世界に自分以外の人間が誰一人いなくなったとして、果たして自分が本当に存在しているという確信をもつことができるだろうか。ほとんど不可能なように思える。

 

自分が自分として存在していると思えるのは、自分が生まれたその瞬間から今まで、自分を一番近くで見守ってきた両親が、常に自分のことをわが子として認識してくれるからだ。小学校のころに出合い、毎日のようにサッカーをして遊び、それぞれ違う道を選んでからもずっと親しくしてきた人々が、自分のことを友として認識してくれるからだ。自分と会うことを何よりも楽しみにして、小さなころからいつでもとびきりの愛情で接してくれた祖父母が、自分を孫として認識してくれるからだ。

 

その反対も同様で、自分も人との関わりの中で誰かに存在そのものを与えている。こうした意味で自分の存在は常に人と人との間に存在すると感じられる。(「我と汝」という本からの影響が強いかもしれない。)

 

海外に身を置くということは、自分にとって一番親しい人々と離れて暮らすということだ。そういう環境にいると、否が応でも自分の原点について考えさせられる。「自分を自分たらしめるもの」、つまり自分の原点とは一体何なのか。自分にとっては、こうした思考プロセスが、結果として「自分探し」になったと思う。世間で出回っている「自分探し」という言葉は、なんだか胡散臭いものとして独り歩きしている。それもそうだと思う。まだまだ日本では海外で生活をした経験がある人は少数派だ。ずっと日本で、自分を自分として認識してくれる人に囲まれた環境で生活をしてきた人にとって、「自分探し」なんて言われても胡散臭いものにしか感じられないと思う。

 

「自分探し」をした先にあるのは、いつも自分の周りにいる人たちへの感謝だった。「いつ帰ってくるんだ」とメッセージを送ってきてくれる友達、自分のことを一番気にかけて、心配してくれる家族。公園を歩いている時に「ああ帰りたいな」とふと感じるのは、帰る場所が日本だからではない。そこが、自分を自分として認識してくれる人々がいる場所だからだ。彼らが、あたりまえのように自分が帰る場所を作ってくれているからだ。

 

また、「自分探し」のなかで見えてくるのは個人としての自分だけではなく、「日本人としての自分」という側面もある。以前の投稿でも書いたが、私は日本で生まれたという事実のみによって自分を日本人と決めつける「ナショナルアイデンティティ」という概念がすごく嫌いだった。国籍なんて関係ない、コスモポリタニズムこそ正しいものなんだ、と思っていた。

 

 

 

それが、イランという全くの外国の中で暮らす中で、自分の眼前にはっきりと浮かびあがるものがあった。それは、どれほど自分が日本の社会から助けられているかということだ。まず、イランに留学したい!という突拍子もない自分の夢は、奨学金なしには実現しなかった。自分の留学を資金面でサポートしてくれたのは、トビタテ留学JAPANという、日本の若者を支援したいというトビタテの声に賛同した一般企業から集められた助成金を元手に、完全給付型で自由な留学をサポートしてくれる機関だった。

 

また、現地では日本人留学生を家に招きご飯をふるまってくれた在イラン日本大使館の人々、週一度のフットサルに招いてくれた商社に勤める方々を中心としたサッカー部、自分を家庭教師として週一度家族団らんの夕食に快く招き入れてくれた日本人家族、多くの時間を共にした日本人留学生の友人たち..。彼らが自分を招き入れ、サポートしてくれるのは、他でもなく自分が「日本人」だからだ。

 

そんな素敵な人々が作り上げている日本という国を、自分は誇りに思うし、純粋に好きだと思える。そして自分をサポートしてくれる日本社会に大きな感謝の気持ちを感じる。

 

 

自分の留学を振り返って、自分が思い描いていた留学計画ほど多くのことは出来なかった。ペルシャ語の勉強だってもっと力を入れてやることができた。点数を点けるなら所詮65点ぐらいの留学だった。

 

でも、留学の道を選んだことに後悔は全く、微塵もない。むしろ、お金なんかよりももっと大切な宝を見つけることができたと思う。自分が留学を通して感じた多くのこと、特にここに記した感謝の気持ちは、これからの自分の人生においてかけがえのない宝そのものだ。

 

八か月もの間ケバブばかり食べ続けて、当然お寿司がまた食べれるとか、牛丼が食べれるとか、そういう喜びも大きいけれど、大切な人々にまた会える喜びをもって、そして日本人としての誇りをもって日本に帰国することができるのが、本当にうれしい。

武士道-国際力は教養力だ-

 

 

 

 

サラーム皆さんこんにちは。久しぶりの更新になりました。

 

 

 

 

 

ブログって意外とめんどくさくて、書きたい衝動にかられた時しか書いてません(笑)

 

 

 

 

 

 

はい、というわけで今回は“武士道”について書いていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

タイトルにかっこよく「国際力は教養力だ」なんて書いたんですが、教養力はまず自分のルーツを知ることが大切だと思います。

 

 

 

 

 

 

というのも、外国人と話している場面では必ず自国の話になり、説明を求められるからです。

 

 

 

 

 

 

なんで日本人は~なんだ?とか、なんで日本は~なんだ?とか、そういうのに答えられないとすごい歯がゆい思いをすることになります。

 

 

 

 

 

 

そんな中で、自分が海外で生活するうえで自然と日本人に関する疑問が浮かんできました。

 

 

 

 

 

海外に来るとわかるんですが、日本人は道徳心が高い民族だと思います。

 

 

 

 

 

というのも、日本は道路がきれいだし、みなルールをきちんと守るし、順番を守るし、マナー違反に対して恥ずかしいと感じる気持ちが強いです。

 

 

 

 

 

道徳心は、例えばキリスト教イスラーム圏では、みな宗教から学ぶものだと思われています。例えばコーランには、道徳的な教義も非常に多くみられますね。

 

 

 

 

 

では、道徳心の高い日本人は宗教からそれを学んだのでしょうか。

 

 

 

 

違いますよね。日本人の中に宗教から道徳心を学んだと感じる人は少ないと思います。

 

 

 

 

 

じゃあ、我々の道徳心の基礎を作り上げているものは一体なんだろうか?

これが自分でなかなか答えを出せずにいた疑問でした。

 

 

 

 

 

そんな中ある一冊の本に出合ったんですね。

 

 

 

それが“武士道”です。

 

 

 

 

武士道の著者はだれでも聞いたことはあるであろう新渡戸稲造です。

 

 

 

 

実は彼がこの“武士道”を書くきっかけとなったのが、ベルギー人の学者から聞かれた何気ないこんな質問からでした。

 

 

 

 

「日本人はどんな宗教教育を行っているんだ?」

―新渡戸「日本では宗教教育は行われていないよ」

「なんだって?じゃあ一体日本人はどうやって道徳観念を学んでいるんだ?」

―新渡戸「むむむむ、(わからない)」

 

 

この会話が新渡戸に筆を走らせるきっかけとなったのでした。

 

 

 

 

 

では、新渡戸が考え出した「日本人の道徳観念を作り上げたもの」とはいったい何だったのでしょうか。

 

 

 

 

 

そう、それが武士道だったのです。

 

 

以下、自分なりに新渡戸の“武士道”をまとめながらお話しします。

 

 

 

新渡戸はまず、武士道が埋まれたきっかけを、“封建制度(Feudalism)によって武士の地位が向上し、特権階級となった彼らは、今までの野蛮な戦士ではなく、特権階級としての立ち振る舞いを身に着ける必要があった” としています。

 

 

 

 

 

武士の立ち振る舞いの基準となるにふさわしい3つの宗教が日本にありました。それが

 

 

 

 

仏教、神道そして儒教でした。

 

 

 

 

武士道は仏教の「運命を静かに受け入れ、従う心」を取り入れました。

 

 

 

 

また神道からは「主君に対する忠誠の心、祖先に対しての尊敬の念」などを取り入れました。

 

 

 

 

そして武士道に最も大きな影響を与えた「儒教」は「穏やかな心、慈悲深き心、そして孔子の世才のある政治倫理的原則」が特にサムライの行動原則にうまく適合したのでした。

 

 

 

 

これらが融合し生まれた武士道の基盤が「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」という七つの道徳的観念でした。

 

 

 

 

 

儒教の「仁・義・礼・知・心」の五常と似ていますね。それほど儒教からの影響を強く受けているということです。

 

 

 

 

「義」とはすなわち「正義の道理」であって「正しい道を進む意志」というべきでしょうか。

新渡戸が出した例を挙げて言うならば「武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振る舞いほど忌むべきものはない。」という言葉や、「義は勇の相手にて決断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり」といった言葉によって表現を試みています。

 

 

 

 

「義」は武士道にとって最も大切な教訓であって、それにゆえに言葉に表すことの難しさ、また恐れ多きを感じる文章です。

 

 

 

 

 

続いては「勇」です。「勇」はもっぱら勇気を表すものですが、「勇とは正しきことを(義しき事)をなすことなり」とつづられています。ただ勇気があるだけでなく、常に義を伴った勇でなくてはならないのです。

 

 

例えば、なにも向う見ずに死んでいく武士の死は「犬死」などと卑しめられるのです。

 

 

そして勇を実践するためには何時も平静を保つ精神力を伴うのです。

 

 

 

 

続いてが「仁」です…と説明したいところですが、あまり長くなってしまうのもそして本の全容を紹介するのもこのブログの本旨ではないということで、この辺で区切ります。

 

 

 

 

こうして新渡戸は武士道の何たるかを紐解いていくわけなのですが、ではこの武士道が我々の精神の中にまだ生きているのかという疑問に対し、新渡戸は「武士道は現になお過渡的日本の指導原理であり、しかしてまた新時代の形成力たることを実証するであろうから」と言及しています。

 

 

 

 

 

この武士道が刊行されたのは19世紀後半、明治維新か大幅に進めれている中でした。

 

 

 

 

新渡戸の時代から100年余り、このころの日本と比べ現在の我々の社会、生活は大きく変化しました。

 

 

 

 

ボーダーレスな世界は、我々に新たな文化を発見し、体験する自由を与えてくれました。

 

 

 

 

そんな時代だからこそ、我々のルーツ、精神的支柱がどこにあるのかをもう一度見つめなおすことは非常に大切であると思います。

 

 

 

海外で生活しているからこそ、新時代を迎えてなお、我々日本人にのなかに「武士道」の血はしっかりと受け継がれいる、そんな確信を感じます。

 

 

 

 

経験から学ぶことってとっても大事なんですが、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」なんて言葉があるように、歴史や先人たちの言葉は人類の英知が詰まったものそのものなわけで、当然自分の経験に頼るばかりでは、もっと大切なものを見逃してしまうかもしれません。

 

 

 

自分が答えを出せずに苦しんだ疑問と同じ疑問を抱き、そしてそれを見事に論じた本を見つけた今回の件で、それをまざまざと感じさせられました。

 

 

 

「温故知新、古き(故き)をもって新しきを知る」孔子の有名な言葉ですが、まったく先人の見つけた英知には時代を超えて共通する真理が本当に多くありますね。

 

 

この「武士道」オリジナルは英語で書かれたものなので、英語で説明する場面を想定するなら、英語のまま読んでみるのもいいと思います。

 

 

興味がある方はぜひ読んでみてください

 

 

ではまた

 

 

 

 

 

引用「武士道、岩波書店

ナショナルアイデンティティってなんたろう

ナショナルアイデンティティってなんだろう

 

サラーム皆さんこんにちは。

 

今世界が熱狂してる国際イベントが開催されていますね。そう、 ワールドカップです。

 

 

 

ここイランでもワールドカップの盛り上がりはすごかったです。

 

 

 

特にグループステージ初戦のモロッコ戦、 勝利で飾った試合の後は人々が熱狂抑えられず通りに繰り出し大変 なことになっていました。

 

 

 

 

ヒジャブをつけず車から顔を出し発狂する女性たち、 クラクションが鳴りやまない道路、道路の真ん中で踊りだす人々…

 

 

ほんと楽しかったです(笑)

 

 

 

そんな素晴らしいいワールドカップですが、 この大会を通じて自分の中にある心の変化が起こりました。

 

 

 

 

ワールドカップは、世界中の国が自国や地域を代表して戦い、 世界一を目指す大会ですね。 ワールドカップで応援するチームはみな決まっています。そう、 世界中の人が自国チームを全力で応援します。つまり、 ナショナルアイデンティティが全面に押し出される大会でもあるわ けですね。

 

 

 

この、ナショナルアイデンティティについてですが、 自分実はこの考え方がすごく嫌いでした。

 

 

 

自分は世界史が結構好きで、 ある時古代ギリシアの歴史を調べていたら、 変わった哲学者について知ったんですね。それがキュニコス派犬儒派)のディオゲネスという人でした。

 

 

彼は本当に変わった人で、かなりの禁欲主義を貫き、 人生の大半を樽の中で過ごしたそうです。 そんな彼が世界で初めて提唱したといわれる考えがあります。 それが「コスモポリタニズム」です。 知ってる人は多いと思いますが、日本語で言えば「地球市民」 の考え方ですね。

 

 

 

彼が提唱したこのコスモポリタニズムを知ったときは、 すごく驚きました。 近代国民国家の考えが定着した現代の時代に生まれ育った自分にと って、 一人の人間が生まれながらにして一つの国家に所属しているという 事実はあまりに当然すぎて、 客観視したことがなかったからですね。それも、 紀元前の古代ギリシア人がこの考えにたどり着いたことは驚異的で すよね。

 

 

 

 

それから自分は、自分自身の事を、「日本人」 というアイデンティティと「地球市民」 というアイデンティティという二つの軸の中で考えるようになった わけですね。それよりむしろ、「地球市民」 という考えの方にひかれて、「 どうして俺は日本に生まれたというだけで、 日本人として生きないといけないんだろう。 ましてや一国家のために自分の人生を使って貢献していきたいなん て絶対に思わない」なんて考えを持っていました。

 

 

 

トビタテ留学JAPAN日本代表として失格ですね。

 

 

ただこの考えが、イランにやってきて、 そして異国の地でワールドカップを経験して、 すこしずつ変わってきました。

 

 

 

 

というのも、イランにやってきてから、 毎日がこのナショナルアイデンティティに向き合う日々だからです 。

 

 

 

 

道を歩いているとき、レストランに入ったとき、 メトロに乗っているとき、タクシーに乗った時。 日常のあらゆる場面でこんな会話をします。

 

 

 

 

「どこから来たの?」-「日本だよ」-「日本か! いいな日本は好きだよ」

「そっかありがとう。俺もイランが好きだよ」・・・・

 

 

 

海外にいるならどこでも同じでしょうが、どんな人と会っても、 自分という個人の前に、必ず「日本人としての自分」 になるわけです。

 

 

 

 

また、週に一回、 お父さんが日本企業のイラン支局で務める関係で、 テヘラン在住中の日本人家族の家で家庭教師をしているのですが、 ここでも日本人アイデンティティを感じます。

 

 

 

 

週に一回、 日本人家族と日本語で日本料理を食べながら過ごす時間は、 ほんの数時間自分がイランにいることを忘れさせます。 この時間が自分にとっては妙に心地が良くて、落ち着きます。

 

 

 

 

テヘラン駐在の日本人はそこまで多くないので、 日本人会に所属する日本人同士のつながりはすごく強いです。 そして自分も例外なく「日本人というだけで」 その日本人会の一員として、迎え入れられます。

 

 

 

 

 

このイランという異国の地で、自分が所属する、 そしてお互いに助け合うことができる場所は、 他でもないこの日本人コミュニティなのです。

 

 

 

そんな中迎えたワールドカップは、今までにないほど自分の中の「 日本人アイデンティティ」を感じました。

 

 

ベスト16進出というアジア諸国の中でも唯一の結果は、 異国にいる自分にとても誇りを与えてくれました。

 

 

 

 

 

先日、語学学校の友達(チュニジア人、トルコ人、 ドイツとイランのハーフ、自分) とこのナショナルアイデンティティについて話していました。

 

 

 

 

自分の「ナショナルアイデンティティは何で決まると思う?」 という問いに対して、

「自分が話す言語」「人種」「生まれた場所」「 育った環境と習慣」などいろんな回答が出てきました。

 

 

 

 

この質問に対する答えはわからないです。ただ、 自分の中で確実に「日本人としての自分」 に対する自信がついてきています。

 

 

 

この世界は、いろんな国があって、いろんな言語があって、 いろんな文化があるから、こんなに面白いですよね。 みんな違うからこそ、面白いんです。

 

 

 

「ナショナルアイデンティティ」と「コスモポリタニズム」は、 対立する考えではなくて、「ナショナルアイデンティティ」 に対する本質的な理解の先に、文化、言語、人種の「違い」 を本当の意味で楽しむことができた先に、「コスモポリタニズム」 への道があるんだと、 そんな自分なりの答えを見つけることができたと思います。

 

 

 

皆さんの考えはどうでしょうか?

 

 

 

それではまた。

 

ラマダーン期がようやく終わりました

サラーム皆さんこんにちは。

 

 

さて、本日約1ヶ月程前から始まっていたラマダーン期が終了しました!本当に長かった笑

 

 

 

ラマダーンについては聞いたことのある人も多いと思います。そうです、断食です。日中(日の出から日没までの間)食べ物はおろか水まで飲む事が禁止されています。

 

 

 

 

イスラム共和国であるイランでは、国の法律によってレストランやカフェの営業が日中は禁じられています。

 

 

また、イランではイスラーム暦ではなくイラン暦を採用しているため、アラブ諸国とのラマダーン期とは異なり、名称もこちらではラメザーンと呼ばれます。

 

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レストラン

 

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カフェ

 

 

全てのレストラン、カフェは閉まっています。正直、行くところが無く本当につまらないですね笑

 

 

 

レストランやカフェは閉まっていますが、イランの街中には至る所にあるマガゼと呼ばれる小さなお店は空いています。

 

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あと、理由は分からないですが写真のような軽食も持ち帰り限定で販売しています

 

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ドーナツ?パン?

 

ただ、国の思惑とは裏腹にイランには宗教的でない人も沢山います。自分のイラン人の友達の中でも、断食を行う人はかなり少ないです。公共の場で飲食を行う事は出来ないので、皆家で食事をします。

 

 

 

 

レストランやカフェの経営は大丈夫なのかと心配になりますが、年に一度街全体がお休みムードになるのも、忙しい毎日を送る日本人からすれば悪くないなあなんて思ったりもします。

 

 

 

ただ、やっぱりラマダーン期間中は本当に行くところが無くつまらないのでもうごめんです笑

 

それではまた

イランの宗教事情について

サラーム、皆さんこんにちは。

 

イランでのネット規制に苦しみなかなか更新できませんでしたが、ようやくVPNを確保したのでこれから徐々に増やしていこうと思います。

 

さて、先日日本に居るときから連絡を取り合っていたイラン人の友達と会って話をしていました。そこで宗教についての話題になったとき、彼女から日本人の感覚にとっては不思議であろう発言があったので、少しここで取り上げてみようと思います。

 

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サハール

 

 

 

 

「私は神の存在はもちろん信じるけど、別にイスラームは信じていないよ」

 

 

 

 

この発言に違和感を覚える日本人は多いのではないかと思います。それは恐らく、多くの日本人が神と宗教の関係は切っても切り離せない関係であると考えているからでしょう。ただ、実はイランにはこういった人が多く存在します。イランだけでなく、欧米のキリスト教国でもこういった人が多く存在すると思います。

 

 

 

ここに、日本人の宗教観と外国人、特に一神教国に住む人との宗教に対する考え方のギャップが見られます。もう少し彼女の言葉を追ってみます。

 

 

 

「確かに昔はイスラームを信じていたし、教えを守っていたんだけど、段々と考え方が変わってきた。神の存在は信じるし、神がいつも私を守ってくれていると感じている。でも、私は神のために生きているわけではなし、私たちが生きている限り求められていることは、他の誰かの幸せのために生きることだと思う。自分の手の届く範囲にいる人々を助けてあげることは、ただただ神に祈ることなんかより、ずっと価値のあることだと思う。」

 

 

「私が神に祈るときは、私が神の助けを必要とするときだけ。自然と神が道を示してくれるし、心に安らぎを与えてくれる。でも、神に祈るからといってイスラームの様にヒジャブを被ったりする事はしたくない。宗教心はあくまで個人的な範囲にとどまるべきであって、他の誰かに考えを強制するのはよくないと思う。」

 

 

ここでの彼女の発言でもわかる通り、神を信じることがそのまま何かの宗教に属することを意味するわけではありません。また信仰心にも当然ばらつきがあるし、何を良しとし悪いとするかも人によって異なります。例えばお酒を飲むからあいつは信仰心が低いな、なんて指摘は相当ナンセンスな言葉だと思います。

 

 

 

科学が自然の摂理の多くを解明し、近代国民国家が共同体を形成する役割の大部分を担う現代において、宗教は同じルールで生活し、同じ信仰を持って共同体を作るものとしての役割はかなりの程度失ったと思います。その代わり、宗教に求められる役割はより一個人の内面に迫る宗教哲学的側面が強くなっています。彼女の言葉はまさにそれを体現した言葉だと思います。

 

 

実は、自分も神を信じています。ただ、神といっても多くの人々が思い浮かべる、例えばキリストやイスラームの様な、この世界を作り出し、またいずれそれを終わらせる全知全能の神ではありません。自分にとって神とは、人間一人ひとりの精神の中に存在する究極の精神状態そのものです。わかりづらいですが、感情や理性を完全にコントロールし、精神的に完全的な状態そのものが私にとっては神そのものなのであり、その「神」に少しでも近づく作業こそが人生においては非常に大切なのだと思います。

 

先日、友人であるイランに留学中のインドネシアムハンマドと話をしていた時、これに似た面白い話を聞きました。彼はインドネシア語英語、アラビア語ペルシャ語を話す非常に優秀な学生で、多様な文化にもオープンマインドな一方で敬虔なイスラーム教徒でもあります。彼にイスラーム信じる信仰心の正体について尋ねた時、彼は次のように語っていました。

 

 

自分が神を信じている理由はコーランに全て書いてある。」「コーランに書いてある内容は、例えばアルコールを飲んではいけないとか、豚肉を食べてはいけないとかそういう誰にでもわかるシンプルな表現が多い。それが単純に規制が多い宗教だと思われる原因かもしれないけど、実はその言葉の奥に多くの秘密が隠されている。」

 

コーランが編纂されたのは7世紀頃で、当然そのころの人々は今我々が知っている常識は持っていないし、街の治安も今よりずっと悪い。」

 

 

 

 

「例えば、コーランに豚肉を食べてはいけないと書いてある理由は豚肉には有害な菌が多く含まれていて、当時の人が知らずにそれを食べれば、大勢の人が死んでしまう。アルコールも規制がなければ街の治安悪化が加速する。今ではきちんと加熱をすれば豚肉は食べられるとほとんどの人が知っているけど、そんなことを説明しても当時の人には誰も理解できない。だからコーランに書かれた内容はだれでも理解し実践できるシンプルなことが書かれている。ただ実はその奥の真理にはもっと深い“秘密”が隠されている。」

 

 

 

 

 

預言者ムハンマドは神から啓示を受けたとされているけど、本当は何らかの理由で彼の心が神の心とリンクしたんじゃないかと思っている。でなければ7世紀に住む一人の商人がこの世界のあらゆる真理に気付いているはずがない。」「だから、自分にとって宗教を実践する行為は、自分の精神を神の精神に近づけるためでもある」

 

 

 

人間が人間たりうる理由、つまり動物との違いは理性を持っていること、教養を教養として学べることだと思います。宗教的な実践は、多くの人にとっては自分の中に眠る理性を、教養を磨く人間的行為の実践の現れでもあると思います。

 

このブログについて

このブログについて

どうも。やまえです。

 

いきなりですが、2018年は”チャレンジの年”にしたいと思っています。早々クソほどありきたりなことを言いましたが、というのも、2018年は私の人生の中で大きな転機を迎える年でもあるからです。その転機というのが....留学です。

 

場所は イラン です。そうです、テロリストになってきます(嘘です)

 

なぜイランなのかというと、、単純にイランが好きだからです。私、非常に海外旅が大好きで、ここ3年間で欧米、アジア、中東と計18か国訪れました。その中でも圧倒的に私の心を動かした国が、他でもないイランだったわけです。そして帰国後もイラン熱が冷めやらず、とうとう居ても立っても居られずに留学に踏み切った、というのが今の状況です。(興味を持ったら一点集中突破タイプです)

 

 

 ここまではいいのですが、周囲の人からは「イラン?危なくないの」「イスラム国がいる国?-(それは、イラです)」「何語なの?」etc......

 

 

 

 

 

............誤解しかない!!!古代オリエント世界の主役、大ペルシャ帝国の現状がこれとは...! )

 

、、という訳でイランの魅力や現地情報をお届けすべくこのブログを始めるに至りました。また、私の留学レポートや中東(イラン)留学、ペルシャ語など様々なトピックを扱いたいなと思っております。

 

 成長ってなに?

 

いきなり話が変わりますが皆さん、人が成長するってどういう事でしょうか。

 

 

私は成長=自己の再構築だと思っています。成長って、自分が今まで経験した事がない体験や価値観に触れることで、今まで自分が持っていた価値観や概念が全く新しいものに生まれ変わる過程で起こるものだと思います。

 

 

 

例えば、生まれたばかりの赤ちゃんにとって周りで起こるすべてのことが全く新しい体験ですよね。それをひとつひとつ自分の中に吸収していって、徐々にハイハイしたりとか、喋りだしたりとか、目に見える成長を見せてくれます。経験をどんどん上書き保存していくイメージでしょうか。

 

 

つまり、新しい体験や価値観に触れることで、自分の中でそれが上書き保存され、それを繰り返していくことで全く新しい自分に生まれ変わることこそが成長なのです。

 

 

 

 

「可愛い子には旅をさせよ」なんて言いますが、海外ってそういう意味では新しい体験とか新しい価値観の宝庫なんですよね。

 

 

 

そんな訳でイランとか中東とか、日本人がまだ知らない未知の世界をリポートすることを通じてみなさんの”成長”の一助となれれば良いなあと、こんな事を思いながらこのブログを書いていきたいと思います。

 

それではまた